復興ツーリングはただの覗き主義─被災地を訪れる自己満足なライダーたち
オートバイに掲げられた「がんばろう日本」といったカードを見てしまうと、呆れてしまう。
被災地を訪れるライダーの中には、単に自分の人生の中で、被災地を訪れたということの実績作りとしか見ていない人もいる。
ボランティアに参加せず、ただ被災地を駆けずり回るだけのライダーに、何の意味があるのだろうか。
本当に被災地を思うのなら、被災地の商品を購入したり、募金を行うべきで、わざわざ道中の過程すら楽しみに変えてしまうツーリングという行為の中で、被災地を目的地あるいは通過地点として設定するのは、もはや自己満足以外の何物でもない。
この手の話は、当の本人が何らかの情報を発信する際に、美談として形作られる。
一連の被災地とライダーとの関係性について、知人を介して関東のNPO団体関係者に話を聞いてみる機会を得ることができた。
例えば、2011年の東日本大震災では個人・団体問わず全国から大勢のボランティアが集結したことは記憶に新しい。しかしその中で一部の人たちが、被災地に対して無料の宿泊所や食事などを要求する行為があり、問題視されたという話が出てきた。
大変興味深い事象である。この手の話に思いを巡らせる時、当事者のエゴイスティックなところが何かしらの形で、現地の人に不快感を与えているだろうという想定が当たった。
さらに話を伺うと、彼らは自己満足的な善意で被災地を訪れて、汚れ仕事や力仕事といったものは行わず、仲間内で彼らなりの勇気づけのための歌を歌ったり、ボランティア同士の親睦を深めたりと、被災者そっちのけで盛り上がって帰っていく行動が少なくなかったという。
私がひねくれていたのではなさそうだ。ここまでの話を聞いてしまうと、冒頭で
オートバイに掲げられた「がんばろう東北」といったカードを見てしまうと、呆れてしまう。
という率直な感覚が、ひねくれ者による所感ではなさそうだという気がする。
そのNPOの関係者は、続ける。
東日本大震災において、“自称ボランティア”が少なくなかった。極めつけは、働いたのに食事くらい出ないのかと文句をつけている者も居たそうだ。
中には、就職活動のネタとしてボランティアに参加するという、なんとも不純な動機も聞かれた。
やらない偽善よりも、やる偽善という考え方がある。
遠い地で被災地に対して、ただ祈っていたり、心を痛むだけでは不十分で、どのような動機であれ、実際に足を運んで被災地で活動を行うことこそが──例え、自己満足や実績作り、就職活動のネタだったとしても、その場所に行かなかった者よりも偉い──そうだろうか?
復興ツーリングなんてものは、被災地の現状を好奇心として知りたいライダーのための受け皿であり、ツーリングと復興という言葉の掛け合わせをするものではないと感じる。
結局、これらに参加をするようなライダーは、その土地を離れれば、あとは次の日に同僚や友人に自慢めいたトーンで話をして終了なのだ。もう、彼らの中では被災地の復興は終わったことになる。また一年後、彼らの中で被災地は経過観察の対象としての”復興”が始まるのだ。
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