▶緑の日々
確かに振り返れば、あれは彼にとっての最後の優しさだったかも知れない。親友のマサヨシとのツーリングをしてもう5年が過ぎている。
彼は今元気にしているだろうか。そんなことを考えながら、私はマサヨシと駆け抜けたツーリングルートを辿っていた。
走り込んでいくうちに、日常が遠ざかり…あの日の思い出が、駆ける列車の合間を見るように、断片的に、だけども鮮明に思い出されてくる…。
親友のマサヨシは、出会った当時には原付免許しか所有していなく、私は初めての一緒のツーリングで所々で置いてかれた彼を待っていた記憶がある。
愛車はホンダのベンリィであった。
レトロで小さいながらも存在感があったのを覚えている。
彼はいつも磨いていたに違いなかった。
キャプトンスタイルのマフラーは会うたびにピカピカで、愛車への途切れぬ愛情を無意識にでも感じられずにはいられなかった。
ある日のこと、彼は自動二輪の免許を取りたいと相談してきた。
原付免許しかなかったために、もっと幅広い交通制度について勉強をせねばならず、私はその講師役を快く引き受けたのだった。
お互いの仕事の合間を縫って、果たして彼は自動二輪免許を取得した。
その日のうちに免許の書き換えを行い、かねてより約束していたツーリングを週末に行えるようになった。
マサヨシの愛車は、教習所に通っている間に入手済みであった。
とても古い年代のオートバイだが、暇をみてはレストアしたと本人が言う通り、随所には眩しいほどの新品パーツが奢られていた。
苦心してオークションで入手したと言う、リアキャリアも取り付けられており、いかにもツーリング然とした感じに仕上がっていた。
集合場所の5分前に彼は滑り込んできた。
どうやら周囲を走り回って暖気していたようだ。
初めてにしてはよく考えた行動だと感心した。
きっと始動とその後の暖気運転で待たせないための、彼の優しさだろう。
空はよく晴れており、いい出だしであった。
市街地の多少の渋滞を我慢して、郊外へと走らせる。
ヘルメットの隙間から入り込んでくる風に冷たさを感じてきた。
排ガスの臭いは消え去り、清々しい匂いが五感を刺激する。
途中で何気なく立ち寄った喫茶店がとても良かった。
暖炉は静かに燃え盛り、置かれたヤカンから遠慮がちに蒸気を昇らせていた。
店内は静かなクラシック調の音楽が流れ、ときおり新聞紙をめくる音と、コーヒーカップを置く音だけが聞こえる。
磨かれた窓からは冬の柔らかな日差しが差し込み、マサヨシがいつも持ち歩いている本とその手に注いでいた。
私にはその小さな光景がとても眩しくて尊かった。
再び山間の道を走る。
ミラー越しに見る彼のライディングはどことなくぎこちなかった。
しょうがないのだ。
私だって初めはそうだった。
ツーリングの距離を重ねるごとに、愛車のクセが分かり、自分のクセも分かり、矯正できた。
当時は自分よりも見るからに高齢そうなライダーがかなりのスピードで掛けていて、ちょっとした好奇心で付いて行ったものの、全く敵わず悔しい思いをしたことがあった。
今、その気持ちを改めて考えるとこれがライダーキャリアの差であると分かるのであった。
小休憩ごとに、小煩くない程度に彼にライディングの助言をする。
道の駅にいるような、ウンチクだけは得意なお爺様になっていないか気をつけたつもりである。
しかし、確かに小休憩の回数を重ねた後の彼のライディングは上手くなっていくのだった。
初めのほうは、ミラーに小さく写っていて、カーブが連続すると彼の姿が見えなくなっていたが、終盤にはほとんどがミラーに写っていた。
肩と腕がこわばっているようなフォームだったのが、どうも自然に見えたのは間違いでなかったようだ。
奥武蔵の静かなダムに到着した。
風がとても強かったのを覚えている。
私はもう何度も極寒の冬をオートバイとともに過ごしてきたから、防寒対策には抜かりはなく、特段寒いとは感じなかったが、マサヨシは「寒い、寒い」と繰り返し言って、手をすぼめて息をかけていた。なんだかオートバイに乗り立ての私を見ているようだった。
帰りは途中まで一緒だった。そこから先は、流れ解散でお互いは十字路の左右に別れて行った。
これがマサヨシと最後のツーリングだった。
記憶のフィルムが最後まで来て、私はハッとした。
この先の十字路を右に折れた先に、彼はまだいるんじゃないかという期待。
同時に、連絡をせず街を出て行った自分の無礼さが期待を押しのけるように膨らむ。
私は、彼の何気ない一言で怒り続け、自ら連絡を絶った。
転勤で街を出る際も、心のどこかでは一言伝えたかったが、私に連絡できない状況を作り続けさせることで言葉の重みを分からそうという手段を取った。
私が心を広く構えなかったから、今苦しむのだ。
彼にとても申し訳ない気持ちが起きた時、私は一旦オートバイを路肩に停めた。
それでも会いに行った時、果たして彼はもうそこには住んでいなかった。
夕日が傾いている。
あの日の喫茶店のような、オレンジ色の柔らかい光だった。
違うのは、もう彼がいないということだった。
あの喫茶店で彼が読んでいた本のタイトルを今でも覚えている。
残されたのは、惨めな自分とオートバイだけだった。
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